2018.6.22
「苦手」と向き合う
こんにちは。まりっぺです。
もう少しで誕生日ということで自分の中では1年の節目。
この1年で自分は何かを学ぶことができたのか、今後このまま今していることをしていていいのかなんて少し自分を見つめなおす感覚になります。
最近こうやってブログを更新させてもらっているのですが。自分の考えを文字に起こしていくことは自分の中ではかなり自信のない部分で文を作っていくこと自体1番と言っていいほど苦手でやりたくないことだったのですが、「あれ?…なんかハマってる…?」なんて自分でもまだよくわからない感情が出てきました。
そもそもなぜこんなにも「文」「文字」「自分の考えを言葉にする」ことに対して苦手意識があったんだろう?と考えたときに昔自分の「苦手」と向き合った出来事を思い出しました。
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小学校4年生、アメリカから帰国して小学校に通い始め友達もでき始めころ私は「日本人の名前が覚えられない」という問題にぶつかった。
言葉の壁、日本とアメリカのカルチャーディファレンスは埋める手段はたくさんあることに対して「人の名前」はその手段の一つ、人の一番大事な部分であり相手を尊重するのに欠かせない部分だ。仲良くなりたいのに人との距離が一気に遠くなってしまう、相手は自分のことを覚えているのに相手からすると自分のことを覚えてくれていないのだと思って離れていく。
「ごめん、名前もう1回教えて?」と何回も何回も名前を聞いてしまい
「〇〇やで」とさらっと返されるのと同時に
「何回聞くねん!」と他の子から突っ込まれる。
なんとかその場は笑ってやり過ごしすぐに母に相談した。
「英語の名前は覚えれるのに日本語の名前は覚えれない」
母からの返事は「どうしようか?」。
相談したのにそれに対してどうしよう?と問われる、「わからんから聞いてるねん!!」って気持ちを抑えつつ母と一緒に解決策を練ることに。
結果から話すと、クラスのみんなにはそのまま、英語の名前は覚えれるのに日本語の名前は覚えれないということ、そして何回も聞いてしまうと思うけれども覚えたい気持ちはあるので付き合ってほしいということを伝え理解してもらい解決した。
私は英語を特に勉強することなく生活の中で必要になりいつの間にか身に着けていた。なので文法の説明や日本語から英語に変更する翻訳作業はあまり得意ではない。
頭の中では日本語は日本語の脳、英語は英語の脳で考えるのだ。それを説明すると「その感覚は理解できない」という人が多いのだが、考え方を変えると理解できることだと思う。
赤ちゃんはまだ理解もできない喋ることもできない日本語を両親から話しかけられいつの間にか喋れるようになっている。そして今、日本語を話すときに頭の中で「あのことを伝えたい、適切な単語はなんだろう?」と考えなくても言葉が出てくる。日本語をどうやって喋れるようになったのか?と聞かれて単語帳を作って文法を勉強して頭の中で文を構成して今やっと喋れているというと答える人はいないだろう。
アメリカから帰ってきたころの私は頭の中の日本語と英語の接続がうまくいかず、伝えたいこと喋りたいことが沢山あるにも関わらず、言葉にするのも文字にするのもできなかった。日本での時間が長くなり普通にコミュニケーションが取れるようになってからも、考えることがめんどくさくて何となくそこを避けて通っていたように思う。
そして今向き合う機会をもらったことをきっかけにそれを克服しようとしている。
昔嫌いだった茄子のお浸しが今おいしいと感じるようになったみたいな感覚で、いつの間にかめんどくさいと思っていた「考える」という作業を楽しんでいるように思うと同時に、苦手なもの、嫌いなことって自分の思い込みのほうが大きいのかなと考え方を少し変え、コンプレックスに思っていた「言葉」という壁を乗り越える準備ができた1年の終わりでした。